みなさん こんにちわ。こんばんわ。
最近、塾の集まりに顔を出せていないひろしです。
はい!元気です。
さて、前回ブログで自分の生い立ちから始まり、なんだかんだ上手くまとまって、落ち込むこともあるけれど私この街が好きです。みたいな話を書かせていただきましたが
また今回、機会を頂きましたので、今回はその「なんだかんだ」の部分を少しお話できたらと思います。
この手合いの話になると、特に大変でしたねとか、苦労されましたね、と言って頂ける事が多いのですが、それに関してはちょっと思うことがありまして
確かに普通の家庭ではなかったし、同じような体験をした人は少ないだろうしちょっと大変でしたけど、果たして自分は人が言うように一番不幸なのでしょうか?
ちょっと他人と比べてみたとき、自分の場合少なくとも死のうとしたことはありませんし、思ったこともありませんでした。
しかしながら、俗に一般家庭とか中流階級とかいわれるような家庭に育った子供が、自分から死を選ぶケースはたくさんあります。
何が違うのか。
メンタルの強弱で話をつけてしまうと、それなりに説得力があるしそれまでなんですけども、恐らくそうではなくて。
じゃあ何かと言ったとき、「何をされたか」ということに目が行きがちで、そっちを見てしまうとより酷い目にあった人の方が大変で不幸。と言うような流れになりますが。
大事なのは、その人が傷ついた。というその一点なのだと思います。
ある程度以上他人に傷つけられると、傷と痛みと恐怖に囚われて人間は自分自身の人生のコントロールを失ってしまいます。
それ自体は外的要因で起こる事なので、こればっかりは正直なとこ仕方ありません。
自業自得的な部分がある人もいるのですが、それも含めてなっちゃった以上仕方ありません。
なってしまったのは仕方ないですが、自分自身の人生は取り戻さなくてはいけません。
自分の経験から思うのですが、人生を取り戻すにあたり、他人に同情されることは問題ではありませんが、自分自身には絶対に同情してはいけません。
自分が人より可哀想だ、損をしたと思っている人は、世の中に対して貸しがあると思っています。
意識的にしろ無意識にしろ、必ず思っています。
シンデレラよろしく、不幸な思いをした分、幸せが返ってこないと不公平だと。
世の中は自分に対して借りを返すべきだと。
当たり前ですが、「世の中」なんて人はいません。したがって借りを返してくれる人はいません。
人生はポーカーみたいなもので、配られる手札は不平等ですが、その後のルールは公平です。
手札が悪いと泣いたところで、いいカードはもらえません。
嘆くのをやめて、手持ちのカードで戦うしかありません。
自分へ同情することをやめると、驚くほど自由になれます。
そして他人の傷に気づいたときに、より可哀想で不幸な人なんかいなくて、ただ傷ついたり喜んだり泣いたり笑ったりしてる人が大勢いるだけなんだな、と思えれば、人生のコントロールは自分自身に戻ってきます。
いじめであれ、虐待であれ、パワハラであれ、自分の人生を他人に奪われたと思ったとき、他人のケアが必要なときもありますが、最後自分の足で立つために必ず必要なことだと信じております。
人間、何で転ぶか分かりません。
何かにつまづいて我が身の不幸に浸ったとき、自分の人生を失いかけてる人が周りにいるとき、ふと思い出してもらえれば是幸いに御座います。